靴が持つ夢の世界を追い続けた“少女”
「道具」とだけ言い切れない何かがこの小さな容れものに秘められている気がしてなりません。/ファンタジックでもあり、セクシャルでもあるオブジェとしての側面も靴は持ち合わせています。〔中略〕機能性とファンタジーと相反するような二つの世界を行きつ戻りつしていましたが、ある時、靴が本来持っているこの二つの世界を素直に受け入れられるようになりました。
(高田喜佐『Shoe,Shoe PARADISE』1991年)
日本のレディースシューズデザインの第一人者であり、「KISSA SPORT(キサスポーツ)」デザイナー・高田喜佐さんの靴づくりは、靴が持つ“夢の世界”に魅せられスタートしました。
靴づくりの門を叩いた1960年代半ばの日本では、革靴が日常の履物として定着しつつあった程度。靴デザイナーという職業など存在していませんでした。
また個展といえば美術品が普通であったその時代に、ファッション商品としても認知されていなかった靴で展覧会を開催するなどセンセーショナルな活動をおこない、靴が創造の対象となりうることを示します。山本寛斎、コム・デ・ギャルソン、ヨーガン・レールのショーの靴や、「anan」「装苑」「服装」などの雑誌用、PR誌用の靴も手がけ、夢のようにワクワクとたのしく美しい靴を次々と世に送り出しました。
その後、求めやすい価格で多くの人に履いてもらいたいという想いから、1976年に「おとなのズック」というユニークなコピーを携え、キサスポーツを立ち上げます。
旧知の仲だったという靴ジャーナリストの大谷知子さんは「靴づくりの職人は愛したが、靴業界とは距離を置いた。既成の価値を打ち壊し新しいファッションを創り出すファッションデザイナーの世界に身を置くことを選び、彼らからファッションビジネスの進め方を吸収し成長した。そのポジショニングが、高田喜佐を希有の靴デザイナーにしたとは言えないだろうか」と、2014年におこなわれた高田喜佐さんの展覧会図録に寄稿しています。
実際、一緒に仕事をしたつくり手は、何度もやりあい、やりあうからいい靴ができた。信じるものがあるからやりあうし、楽しかったと話します。「サンプルをお持ちすると少女のように手放しで喜ばれて、すぐに履いてみられるのです。仕事より何よりご自分が履きたいんだなと思いました」(展覧会図録より一部引用)。
夢みる少女のようなデザイナーの遊び心に、職人の手により生み出された確かな機能美が融合した、大人のためのカジュアルシューズは多くのファンに愛され、1980年代半ばには年間販売足数10万足を超える人気ブランドとなりました。
(写真1枚目)高田喜佐さん。2006年に他界。生前、写真が出ることをあまり好まなかったため、数少ないうちの1枚。
(写真2枚目)必要があればこれをと、自画像を載せることが多かったそう。
(写真3枚目)キサスポーツの前身ブランド「KISSA」から1973年秋冬に発表した大人のズック第1号。70年に発表した「ポックリ」と、同じ頃流行の先端をいったプラットフォームが符号したデザイン。
(写真一番下)2014年におこなわれた展覧会の図録『高田喜佐 ザ・シューズ』。巻末には「あなたにとってKISSAとは?」というタイトルで、親交のあった川久保玲さんや小野塚秋良さん、安西水丸さん、大橋歩さん、若林正裕さん、ひびのこづえさんなどなど……ジャンルを超えてたくさんの人からメッセージが寄せられている。展覧会では、41年間につくった靴のうち約400点が展示された。